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005 — 制度 / 2026.10.24

大学は何のためにあるのか――人文科学の解体と、結論を急がない時間

Vol.05 / 2026年10月号(主文)

NEHの廃止予算と新規公募、ハーバードの165職削減、英国4,000ポスト減、日本の私大定員割れ46.2%。人文科学はなぜ削られるのか。大学が自ら採用した「役に立つか」の尺度を、思想史と財政データで問い直す。

閉じかけた教室の扉、書架、時計、予算グラフが重なるイメージ図。

大学は何のためにあるのか――人文科学の解体と、結論を急がない時間

閉じかけた教室の扉、書架、時計、予算グラフが重なるイメージ図。左側に見出し用の余白がある。
アイキャッチ=イメージ図(筆者作成)

1. 事件:廃止予算と、新規公募が同時に進む

2026年10月20日、米国の国立人文基金(NEH)は「Public Humanities Projects 2026」の新規公募を出した。締切は12月16日、助成額は最大50万ドル(約7,800万円)。重点テーマは西洋文明、文学・歴史・哲学の古典、建国250年、市民教育である。

同じ年、トランプ政権のFY2027予算案は、NEHの廃止と3,800万ドル(約60億円)の閉鎖予算を提案していた。閉鎖予算のうち助成に回るのは836万ドル(約13億円)で、それは国立の英雄像を並べる「National Garden of American Heroes」の事業に充てられる。NEAは2,900万ドル(約46億円)、IMLSは600万ドル(約9億4,000万円)で、同じく廃止の方向にある。

廃止予算と新規公募が、同時に動いている。 これは矛盾ではない。大統領予算案は議会への政治的信号であり、実際の支出は成立済み予算と暫定予算で動く。議会はFY2026にNEHへ前年同額の2億700万ドル(約325億円)を計上し(2026年1月23日署名、P.L. 119-74)、NEHは7月に4,140万ドル(約65億円)・81件の助成を発表した。10月から12月11日までは暫定予算(P.L. 119-103)で、FY2027はまだ成立していない。

つまり、いま起きているのは「人文科学の消滅」ではない。人文科学の予算を、建国史・国民的英雄・西洋文明の事業に組み替えるという、静かな方向転換である。公募の重点テーマは、その方向とよく一致している。

この光景を、どう読むか。本稿の問いは、ここから始まる。大学は何のためにあるのか。 そして、その問いに大学自身が答えられなくなったとき、何が削られるのか。

2. 数字:赤字の原因は、人文科学ではない

「人文科学が削られるのは、役に立たないからだ」という説明を、まず数字で疑っておきたい。

ハーバード大学FAS(文理学部)は、3億6,500万ドル(約5,730億円)の構造的赤字を抱えている(FAS予算の約2割)。2026年6月には、マッキンゼーに少なくとも25万ドル(約3,920万円)を支払い、2,300人規模のスタッフ職と60以上の管理システムの再編を委託したことが報じられた。最終的に165職が削減され、149人がレイオフ、73人が「新職かレイオフか」を選ばされた。Arts and Humanitiesは144人中19人が削減、社会科学は252人中58人が削減である。

イェール大学は、人文・社会科学の博士課程入学を3年間で約13%減らす。科学・工学は約5%減だ。背景には、2025年の法改正で富裕層大学の寄付基金税が1.4%から8%に上がり、年間約3億ドル(約4,710億円)の負担になるという見積りがある。

ノーステキサス大学(UNT)の赤字は4,500万ドル(約71億円)。原因は留学生(特に大学院)の減少と、州のフォーミュラ交付金の3,200万ドル(約50億円)減である。70以上のプログラムが削減され、言語学は全学位を段階的に廃止する。

デンバー大学は2026年6月、宗教学、電気・コンピュータ工学、哲学、ジェンダー・女性・セクシュアリティ研究、社会法研究の5部門を閉鎖し、2つのカレッジを統合すると発表した。ただし、専攻・学位プログラムは別部門で継続する。部門の自律性とカリキュラム編成の主体が失われるが、哲学の学位が消えるわけではない。

英国では、2024年12月までの1年間に、社会科学・人文科学・芸術(SHAPE)の約4,000ポストが失われた。社会科学約3,000、人文820、芸術240。3,890が非ラッセル・グループの大学に属する。エクセター大学は2026年7月、150ポストの削減を提案し、その85%が人文・芸術・社会科学に集中した。

日本では、2026年度の私立大学の46.2%(275校/595校)が定員割れである。18歳人口は2026年1月1日時点で109万人。2040年には82.3万人、2050年には79.7万人と予測されている。

大学の縮小が、財政・人口・評価という三つの原因から生じ、人文科学がその出口として選ばれることを示す因果図。
図1: 縮小はどこから来たか――人文科学は原因ではなく「出口」である。図は筆者作成(資料: Harvard Crimson、Yale Daily News、UNT、Guardian、文部科学省・私学事業団)

これらの赤字の原因を並べると、人文科学の「非実用性」はどこにも出てこない。ハーバードは既存の財務構造と連邦資金・寄付基金税、イェールは寄付基金税、UNTは州交付金と留学生、デンバーは人口動態である。人文科学は、赤字の原因ではなく、削減の出口として選ばれている。

しかも、削減は「学部の廃止」よりも「事務・運営の再編」として現れる。専攻が残っても、部門の自律性、学生への助言機能、カリキュラムを組む主体は失われる。この損失は、入学定員や収入の指標にはすぐ現れない。

3. 神話:フンボルト的大学は、最初から国家依存だった

大学の危機を語るとき、たいてい「フンボルト的大学の喪失」から始まる。研究と教育の統一、孤独と自由、国家からの自律。人文科学はその理念の家だったが、いま家が解体されている、と。

だが、その家は、思われているようには建っていない。

フンボルトの大学覚書は、1809〜10年頃の未完成の草稿である。生前には公刊されず、1896年に初めて出た。1963年にシェルスキーが『孤独と自由』でスローガン化し、戦後ドイツの大学改革の象徴になった。理念が制度を導いたのではなく、制度の危機のたびに、理念が発明され直した。

覚書の中心的な文言は、こうだ。

「…so sind Einsamkeit und Freiheit die in ihrem Kreise vorwaltenden Principien.」(孤独と自由が、その圏内で支配的な原理である)

だが、ここで「研究と教育の統一」という定式を探すと、見つからない。原文にあるのは、もっと厳しい関係だ。

「Der erstere ist nicht für die letzteren, Beide sind für die Wissenschaft da.」(教師は学生のためにあるのではなく、両者ともに学問のためにある)

教師も学生も、学問の従属項である。これがフンボルトの平等主義であり、「統一」という言葉は後世の要約にすぎない。

さらに、国家との関係も単純ではない。覚書は「国家は介入するやいなや常に妨げになる」と書きながら、末尾では「教授の任命は国家に専ら留保されねばならない」とする。自由は教説の内容に対する自由であり、人事と財政は国家が握る。 自律とは、国家が中身に口を出さないことであって、国家からの自立ではない。

批判的に付け加えるなら、プロイセンで女性が正規に入学できるのは1908年からであり、「余暇(Musse)」を前提とする学問像は、財産と教養を持つ市民層に支えられていた。フンボルト的大学は、最初から国家の土地に建ち、少数の特権の上に建っていた。

だから、「フンボルト的大学を取り戻せ」という復古調の防御は、歴史的に正確ではない。取り戻すべき黄金時代は、最初から神話だった。この神話を解除することは、大学を攻撃することではない。大学を、現実の制度として守るための第一歩である。

4. 思想史①:自由は、地位の低さの代償だった

大学の自由を支えた思想を、もう少し丁寧に見ておきたい。

カントの『学部の争い』(1798)は、神・法・医の「上級学部」が政府の命令に従うのに対し、哲学部を「下級学部」と呼ぶ。下級であることは、卑屈ではない。

「Es muß … noch eine Fakultät geben, die … vom Befehl der Regierung unabhängig, keine Befehle zu geben, aber doch alle zu beurteilen, die Freiheit habe.」(政府の命令から独立し、命令を与えることはしないが、すべてを判断する自由を持つ学部が、大学に一つ存在しなければならない)

哲学部は、上級学部を監視し、政府は批判を許すことで自らの利益を知る。自由は天与の権利ではなく、統治の合理的な自己利益から導かれる。哲学部は「議会の左側」の野党に喩えられる。

だが、その自由は学者の共和国の内部に閉じている。聖職者・官吏・医師は公衆に向かって反論してはならず、民衆は判断しない。公衆的な知の自由ではなく、同業者間の自由である。この閉鎖性は、いまの大学の「内部の自由」と「外部への説明責任」の不一致にまで尾を引いている。

ニューマンは、もっと率直だ。

「Knowledge is capable of being its own end.」(知はそれ自体が目的でありうる)

だがニューマンにとって、大学は研究の場ではない。目的は「知の拡散と伝達であって、前進ではない」。発見は学会の仕事だと明言する。フンボルトとは正反対である。しかも、自由教育がつくるのは「ジェントルマン」であり、「liberal」は「servile(隷属的)」の対義語として、肉体労働・商業・専門職を劣位に置く。知のための知は、階級的ジェントルマン理想と切り離せない。

5. 思想史②:ウェーバーの禁欲が、自己正当化の言語を奪った

人文科学の危機を、外部の予算削減だけに帰すことはできない。その内部に、自分で自分の価値を語る言葉を手放した歴史がある。

マックス・ウェーバーの「職業としての学問」(1917年講演、1919年刊)は、その転換点だ。

「Eine wirklich endgültige und tüchtige Leistung ist heute stets: eine spezialistische Leistung.」(今日、真に最終的で堅実な業績は、つねに専門的な業績である)

学問は完成しない。新しい問いが生まれ、昨日の成果は古びる。世界は脱魔術化され、学問は「何をなすべきか、いかに生きるべきか」に答えない。答えうるのは預言者か救世主だけで、国家に給料をもらった「小さな預言者」たちの講壇預言は無駄だとウェーバーは切り捨てる。

「weil der Prophet und der Demagoge nicht auf das Katheder eines Hörsaals gehören.」(預言者も煽動家も、講義室の教壇に属さない)

要求されるのは「知性的誠実」、すなわち事実の確定と価値判断の異質性を認めることだ。

ここで、人文科学は重要なものを手に入れ、同時に重要なものを失った。手に入れたのは、政治的な預言から自由な、学問の誠実さである。失ったのは、「なぜ人文科学が必要か」を、社会に向かって語る言語だ。意味を供給しないと決めた学問は、意味を求める社会に対して、何を差し出せばよいのか。

人文科学の解体は、外部の圧力だけの結果ではない。意味の供給を禁欲した結果、自己正当化の言語を失ったのだ。これは、ウェーバーを非難する話ではない。彼の禁欲を引き受けたまま、別の言語を見つけるという、まだ終わっていない課題の話である。

6. 思想史③:文化、半教養、性能主義

アーレントは、文化と娯楽を区別する。

「Culture relates to objects and is a phenomenon of the world; entertainment relates to people and is a phenomenon of life.」(文化は対象物に関わり、世界の現象である。娯楽は人々に関わり、生命の現象である)

文化の指標は耐久性(durability)だ。アーレントによれば、厳密に存在するのは大衆文化ではなく大衆娯楽である。危機は受け手の能力ではなく、文化物が機能へ還元されることにある。守るべきは判断力であり、判断は他者の存在を要する。

アドルノの「半教養の理論」(1959)は、その機能還元の別名だ。

「Halbbildung ist der vom Fetischcharakter der Ware ergriffene Geist.」(半教養とは、商品の物神崇拝的性格に捉えられた精神である)

半教養は無知ではない。情報は大量にあるが、経験の連続性に溶け込まず、断片のまま二価的な世界像を形成する。要約動画、切り抜き、AI要約は、その最新形態として読める。

そしてリオタールは、大学の正当化そのものが変わったと診断する。

「the goal is no longer truth, but performativity – that is, the best possible input/output equation.」(もはや目的は真理ではなく、性能、すなわち可能なかぎり最良の投入/産出の方程式である)

知は売るために生産され、大学は理念ではなく技能を作るよう求められる。人文科学の危機は、予算削減の前に、正当化の文法の転換である。技能に翻訳しにくいから負けるのではない。翻訳を要求する文法が、人文科学の自己理解と相容れないのだ。

7. 指標が、大学を解体する

その文法を、具体的な数字で見てみよう。

2026年10月7日、ニューヨーク・タイムズは連邦の所得データを使った「専攻別の収入」ガイドを公開した。連邦学生援助を受けた2017-18年・2018-19年卒業生の、卒業4年後の中央値である。全体の中央値は6万4,500ドル(約1,012万円)。最高はデューク大学数学の29万7,029ドル(約4,660万円)、以下カーネギーメロン大学コンピュータ科学の26万8,121ドル(約4,207万円)が続く。人文・芸術系では、ジュリアードの音楽専攻が3万2,842ドル(約515万円)である。

この数字は強力だが、測っていないものが多い。連邦援助受給者に限られ、富裕層・無援助の学生を含まない。卒業4年後だけを見ており、大学院進学後の収入を含まない。専攻と大学の選択効果を分離できず、公共部門・非営利・教育・芸術の価値も測らない。因果効果ではなく、相関の分布である。

ランキングも同じだ。QS 2027の重みは、学術評判30%、被引用20%、雇用者評判15%、教員学生比10%、就職5%、国際性15%、持続性5%。人文科学は被引用数で理工系より不利で、単著・書籍・地域言語の研究成果は英語論文の引用ネットワークに乗りにくい。

大学を測る三つの指標(収入・定員・ランキング)と、それぞれが測れていないものを並べた図。専攻別収入の中央値、私立大学の定員割れ率、QSランキングの重みを示している。
図2: 大学を測る三つの指標と、測れないもの。図は筆者作成(資料: NYT 専攻別収入ガイド 2026-10-07、私学事業団 令和8年度入学志願動向、QS World University Rankings 2027 methodology)

三つの指標は、いずれも「排出」と「評判」を測る。教育の付加価値、地域貢献、公共性、判断力の形成は測らない。測れないものは、予算配分の場で「ない」ものとして扱われる。 これが、人文科学の縮小のいちばん静かな機構である。

8. 日本の現実:人文科学の危機ではなく、私立大学モデルの危機

日本では、この機構が人口動態と結びつく。

2026年1月1日時点の18歳人口は109万人。2040年には82.3万人、2050年には79.7万人と予測される。2026年度の私立大学は595校、定員50万579人、入学者51万4,277人、充足率102.74%。定員割れは275校(46.2%)で、2024年度の354校(59.2%)、2025年度の316校(53.2%)から改善した。

だが、この改善は需要回復ではない。私立大学の入学定員は2年連続で減っており、改善の一部は定員縮小による。18歳人口は2020年代後半から再び減少期に入る。現在の改善は「踊り場」にすぎない。

国立大学の運営費交付金は、FY2026に1兆971億円(前年度比+188億円、9年ぶりの増額)で成立した。ただし2004年度の法人化当初は1兆2,416億円であり、物価・人件費を考えれば実質増額ではない。

2015年6月の文科省通知は、人文社会科学系について「18歳人口の減少や人材需要…を踏まえた組織見直し計画を策定し、組織の廃止や社会的要請の高い分野への転換に積極的に取り組むよう努めることとする」と記した。法律上の義務ではないが、国立大学の中期目標・中期計画に反映され、再編が進んだ。

2026年4月には、熊本大学文学部が4学科を1学科・9コースに統合し、敬和学園大学が人文学部3学科の募集を停止して国際教養学科を新設した。分野の消滅ではなく、教育単位の再設計である。だが、教員の専門性、カリキュラムの多様性、学生の選択肢は縮小しうる。

日本の「人文科学の危機」は、人文科学だけの危機ではない。18歳人口の減少、私立大学の学費依存、国立大学の基盤的経費の削減が重なった、高等教育全体の構造問題である。人文社会科学は、その調整弁として再編されやすい。問題は「人文科学が役に立たない」ことではなく、「大学の数と配分」なのである。

9. 意見圏:三つの「死」と、管理職への怒り

Redditの大学関係コミュニティ(2023〜2026年、12スレッド・約1,200コメント)を見ると、議論は「人文科学 vs STEM」の図式からかなりずれている。

第一に、「死」は三つに分かれている。制度的死(学部・部門の閉鎖)、需要の死(学生が興味を持たない)、政治的死(教養学位を貶める宣伝への警戒)である。アイオワ大学の古代史研究者は、契約終了後に常勤の歴史教員が一人もいなくなると告げられ、「タイタニック号からクイーンズタウンで降りる気分だ」と書いた。これに対し「すべての学校がすべての学問を研究する必要はない」という反論が付く。死の単位を、学部から大学へ移し替える論法である。

第二に、擁護は人文学の外からも出る。ある州立大学の閉鎖告発では、化学・数学・天文・工学の専攻者が人文学を擁護した。一方で数学者は、人文学を「現在の高等教育と噛み合わない一種の贅沢」と呼び、原因を政治ではなく家計に置く。当事者の一部が、対立図式そのものを否定している。

第三に、最も強い怒りは「管理職の肥大化」に向かう。「管理職は60%増、教員は10%増、職員は5%減」という証言(統計ではない)、「管理職が管理職を必要とするループ」、「デッキチェアの配置替え」という皮肉。ただし「管理職は裏方で我々の仕事を楽にしている」「部長を教員に数えるか管理職に数えるか」という留保も同一スレッド内にあり、診断は合意されていない。

日本のはてなブックマーク(2026年7月、15 users・10 comments)では、「人文系が多すぎる」が議論の前提になっている。「減らしても理工系の予算が増える気がしない」「実績で判断し、そうでない学部はぜんぶ潰せ」「経営者のダウンサイジングが先では」——争点は「人文科学の価値」ではなく、「何を残すか」「削減の果実は誰に行くか」に移っている。

10. 反論と留保:大学を守ることは、特権を守ることでもある

ここまで読むと、「では人文科学を守れ」と言いたくなる。だが、その前に三つの留保を置きたい。

第一に、ヌスバウムの民主主義論は強いが、因果の証拠は弱い。人文科学がソクラテス的批判、世界市民性、物語的想像力を育て、民主主義を支えるという論証は規範的には説得力がある。だが、民主主義の衰退を人文科学の不在に帰すのは、政治的責任の転嫁になりうる。

第二に、ウェーバーの禁欲は、脱政治化の職業倫理としても機能してきた。価値判断を教室から排除することは、学生が切実に問う「どう生きるか」を遠ざける。中立性は、既存の秩序を温存する態度にもなる。

第三に、大学は特権的な場所である。フンボルトの「余暇」は、財産と教養を持つ市民層のものだった。現在の大学も、学費、時間、家庭の文化資本を前提とする。「大学を守れ」は、その特権を守れという主張と紙一重である。

だから、守るべきは「大学」という建物でも、「人文科学」というブランドでもない。大学が守っている時間と場所の、誰に開かれているかである。

11. 結論:大学は「結論を急がない時間」を守る制度である

最初の問いに戻る。大学は何のためにあるのか。

答えを、生産性の対義語として置くのではない。大学の固有の価値は、結論を急がないための時間を、社会的に確保することにある。

ウェーバーは、学問が意味を答えないことを認めよ、と言った。だが、答えがないことを認めるには、答えを急がない時間が要る。アーレントは、判断には他者の存在が要ると言った。複数の立場を同時に保持し、すぐには決めないことは、判断の前提である。リオタールは、性能主義が既存の規則を揺さぶる力を排除すると言った。規則を揺さぶるには、その規則が失敗するのを待つ時間が要る。

人文科学は、この時間の保管庫である。古典を読み、矛盾を抱えたまま書き、結論を保留する。それは非効率ではなく、社会が将来の問いを保管するための機構である。

だが、その時間は、誰かの学費と労働と富に支えられている。だから問うべきは「大学を守るか」ではない。「その時間に、誰が入れるのか」である。入れる者が一部に限られているなら、大学を守ることは、特権を守ることになる。

2026年の人文科学の解体は、その問いを、予算の言語で突きつけている。答えはまだ出ていない。出す必要もない。大学は、答えを急がないための時間を、社会が借りておく場所である。 その借り賃を誰が払い、誰が使うのか。それを決めるのが、これからの大学の仕事だ。

12. 読書案

  • Wilhelm von Humboldt, 「ベルリン高等学術施設の内的・外的組織について」(1809/10頃、1896年初出)。「孤独と自由」の原典。研究と教育の「統一」が後世の要約であることを確認できる。
  • Immanuel Kant, Der Streit der Fakultäten(1798)。哲学部を「下級学部」とし、自由を統治の自己利益から導く。
  • John Henry Newman, The Idea of a University(1852)。知のための知と、ジェントルマン理想の結びつき。
  • Max Weber, 「職業としての学問」(1917講演/1919刊)。専門化、脱魔術化、価値自由、知性的誠実。
  • Hannah Arendt, 「文化の危機」(Between Past and Future, 1960)。文化と娯楽、耐久性、判断力。
  • Theodor W. Adorno, 「半教養の理論」(1959)。情報過多と、経験の断片化。
  • Jean-François Lyotard, La condition postmoderne(1979)。性能主義と、知識の正当化の危機。
  • Martha Nussbaum, Not for Profit(2010)。民主主義のための人文科学。規範的議論の強さと、実証の弱さを併せて読む。

13. 参考資料

思想

  • Humboldt, „Über die innere und äußere Organisation der höheren wissenschaftlichen Anstalten in Berlin“(1809/10頃)
  • Kant, Der Streit der Fakultäten(1798)
  • Newman, The Idea of a University(1852)
  • Weber, „Wissenschaft als Beruf“(1919)
  • Arendt, „The Crisis in Culture“(1960)
  • Adorno, „Theorie der Halbbildung“(1959)
  • Lyotard, La condition postmoderne(1979)
  • Nussbaum, Not for Profit(2010)

制度・統計(米国)

制度・統計(英国・日本)

指標・評価

※外貨の円換算は、2026年10月24日付の時事通信7時現在の為替(1ドル=156円90銭前後)に基づく概算である。本文のドル額は、2億700万ドル(約325億円)、3,800万ドル(約60億円)、3億6,500万ドル(約5,730億円)、25万ドル(約3,920万円)。ポンドはレート未取得のため換算していない。

14. 画像の利用について

アイキャッチおよび図1・図2は筆者作成のイメージ図・チャートであり、その元データの出典は各figcaptionのとおり。

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